《六燃探索》日文序
林身振さんとは1960年代にアジア生産性本部の招聘により、わが国の品質管理研修に来日された時以来なので、本当に永い朋友である。折りしも、日本滞在中に次女が誕生され、日本の国花である「桜」に因んだお名前「英」を命名されたと聞いている。
爾来半世紀を経て、各自の子供は成長し、結婚し、今やお互いが「孫」を持つ歳となった。
林さんは大学で化学工学を専攻され、中国石油に職を得、40年以上精励勤務された。その生涯を産業の糧である石油と共に歩まれたといえる。定年後、中国石油高雄精練所の前身である「第六海軍燃料廠」に興味を抱かれ、大変な苦労をされて今回の「六燃探索」出版に至ったことに対し衷心から敬意を表する。
2005年春、当地で「愛知万博」が開催された時に来日され、三重県長島温泉に宿泊されたので面会した。幸いにも、当日の午前中は予定がないとのことだったので、急遽、石油コンビナート地帯であった四日市市を案内した。途中「昭和四日市石油(株)」を見かけたので、アポイントは無かったが工場見学を依頼したところ快く受けてもらえた。原油受入、精製、製品積出など諸施設、コントロール・ルームまで、広い構内を自動車で案内いただいた。林さんによれば、作業者の人員が少なく、効率的に作業が進められているとの感想であった。
1年前に林さんから、「別府良三中将」について質問があり、調査したところ第二次大戦中は高雄の「第六海軍燃料廠」の廠長であった。また、戦後帰国してからは四日市市の「昭和四日市石油(株)」の設立者の一人であったことが判明した。偶然にも、この工場は戦前は「第二海軍燃料廠」であったという。ここから林さんの「探索」の糸が四方八方へ伸びていったようであった。
その後、海軍兵学校、海軍機関学校、水交社、華族名簿など問われ、私にとっても新しい発見の連続であった。ある時、「第六海軍燃料廠史」編集委員の名簿が届き、記載されたご自宅へ直接電話したが、戦後65年はあまりにも永く、残念ながら連絡不通か、既に鬼籍に入られていた。東京の出版社をも探したが、記された住所はマンションに変わり、徒労に終わった。もう10年早かったら、執筆者の何人かから直接の証言を得られたかもと思うと、時の経過は残酷であった。
『賢者は歴史に学ぶ』という言葉がある。日本と台湾との永い歴史の中には不幸な出来事も数多く伝えられている。しかし、「六燃探索」を一つの切り口として、過去を尋ね、将来への道標とするのが我われの責務である。歴史から学び、両国の友好関係が強化され、未来永劫に続くことを強く祈念し、林さんの「六燃探索」上梓の祝辞とする。
西山大造
Daizo Nishiyama < dainsym@hotmail.com
>
下記の通りお礼状が届きました。(平成25年11月12日付け)
回覆刪除1 東京都渋谷区神宮前1丁目5番3号
公益財団法人 水交会 理事長 藤田 幸生 様
『拝啓 時下益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。
この度は「第六海軍燃料廠探索」をご寄贈くださいましてご厚志の程有難く厚く御礼申し上げます。
ご寄贈下さいました書籍は当会の貴重な資料として保管活用させて頂く所存です。今後とも何卒
よろしくお願い申し上げます。
先は右お礼のご挨拶を申し上げます。 敬具 』
3 四日市市塩浜町1番地
昭和四日市石油株式会社 社 長 佐藤 仁 様
『日毎に寒気が加わる時節となりました。
この度は貴重な図書をお送りいただきましたありがとうございます。有り難く頂戴いたします。
お手紙で「第六海軍燃料廠」と当社の地にあった「第二海軍燃料廠」との関係をご教授頂き
改めて四日市石油の歴史の広がりを感じた次第です。社内で昨年より展開中の「歴史に学ぶ」運動
の貴重な資料として大切に活用させて頂きます。ありがとうございました。
先は取り急ぎお礼申し上げます。』
以上です。 西山
P.35 The same sentence are repeated.
回覆刪除日本海軍(海車)第六燃料廠精製部長・・・・
P.70 「引渡目 」=「引渡目録」
P.010 西山大造 1959年 国立神戸大学法学部卒業
1992年8月 MBA
1990年9月 定年退職
Please check again. 西山
讀者回應:請將此日文序譯成中文
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